§0 はじめに
皆さんこんにちは。きらら女子大学で言葉遊びを専攻しているぱらじーむと申します。
僕はたまーにTLで爆笑ダジャレを披露しますが、一見くだらない言葉遊びに見えるそれにも裏にはちゃんとした哲学があります。
以前、「ダジャレについて記事を書け」みたいな投書があり、普段頭の中で済ませてしまっているイロイロを言語化するせっかくの機会だと思って筆を取りました。
ダジャレの深遠な世界を知ることで、よりいっそうダジャレを楽しんでもらえたらこの上ない幸せです。
§1 ダジャレの基礎
ダジャレはシンプルなようで奥深い世界です。まずは、「どういうダジャレなら評価されるか」、そして「ダジャレを作るときのルール」を見てみましょう。
1.1 ダジャレの評価
多くの人はダジャレと聞くとすぐ、「寒い」「つまらない」と連想します。そもそも、ダジャレの名前そのものが駄洒落、つまりくだらない洒落だと行っています。多くの場合、ダジャレは日常会話で登場しますから、日常に即した具体例つきで見てみましょう。
友人「昨日、筋トレ頑張っちゃってさ。筋肉痛がひでえよ。」
ぼく「そっか。じゃあ今日はゆっくり休む感じ?」
友人「そうだね。今日は流石に筋トレ無理。」
ぼく「負荷だけに不可ってかwなんつってw」
はい。次に友人はおそらく「つまんな。」とか「金取るぞ。」とか言うでしょう。おそらく、あなたたちも友人の立場ならそうするはずです。これはなぜでしょうか。ダジャレが敬遠される理由を考えてみました。
- カラクリがあまりにも分かりやすい。
- このギャグ面白いでしょ?という感じが伝わってくる。
- 「ダジャレは面白くない」という風潮がある。
まず1の「カラクリがあまりにも分かりやすい」について考えてみます。皆さんが知的に面白いと感じるのはどんなときでしょうか。練られたコントを見たとき、伏線が回収されたとき。色々あると思いますが、いずれにも共通して言えるのは、分かった瞬間であるということです。考える→ヒラメキのプロセスが知的な笑いを誘うのです。では、ダジャレはどうでしょう。
アイスを愛す
すぐに、"アイス"と"愛す"がかかっていると理解出来てしまいます。このせいで、ダジャレが単純にギャグとしてつまらないのだと考えられます。
次に2の「このギャグ面白いでしょ?という感じが伝わってくる」について考えます。いきなりこんなことを言うのもアレですが、ダジャレは会話に不要です。ダジャレはただの言葉遊びに過ぎず、会話の内容を発展させるものではないからです。そういうわけで、ダジャレを効率が重視されるビジネスの場なんかに持ち出したら顰蹙を買ってしまいます(もっと理由はありそうですが)。
そんなダジャレをわざわざ持ち出してくる、その理由はなんでしょうか。それは偏に「自分のダジャレが面白い」という自信を持っているからにほかなりません。人間、相手の「コレ面白いでしょ?」という心理を見ると「いや、つまんないよ」と返したくなってしまうものです。
いや、実際にギャグが面白ければぐうの音も出ないのですが、さっき述べたように、ダジャレは往々にして単純なカラクリをしていることが多いです。そんなギャグでドヤ顔をされても、「は?」ってなるのが普通だと思います。
最後に、3の「ダジャレは面白くないという風潮」について考えてみます。これは皆さんお分かりだと思います。ダジャレにはオヤジギャグという別名がありますが、これは「ダジャレ=オヤジが言うもの」という観念を示唆しています。もう少し詳しく見ると、
ダジャレは面白くないという共通認識がある。
↓
あえてダジャレを言うことで「つまらない」という反応をもらえる。
↓
ピエロ芸をしやすい。
↓
ピエロ芸をするのは(場の盛り上げ役である)オヤジであることが多い。プライドを捨てられない(≒異性によく見られたい)若者はあまりピエロ芸をしない。
→あえてつまらないダジャレを自ら言うのはオヤジばかり。すなわちオヤジギャグ。
こういう背景があるわけです。何が言いたいかというと、「ダジャレ=つまらない」の図式は集団社会に深く根ざしているということです。
僕はダジャレを言った人間を無条件で叩く風潮が嫌いです。確かに、面白くないダジャレはあります。TPOをわきまえない人もいます。そういうのは叩いていいと思います。ですが、面白いのまで叩いてしまうと、披露した人は自信を失うし、披露しようとする人も少なくなります。それに、ダジャレを言う人は少なからず勇気を振り絞っているわけです。「ダジャレ=つまらない」という風潮に便乗すれば、その勇気を無視してダジャレを叩くだけで簡単に多数派になれます。そういうのって卑怯じゃないですか?
僕があえてダジャレを言う理由は、この「ダジャレ=つまらない」という風潮を無くしたいからです。
ではどうすればいいか?
先ほど述べた通り、ギャグがつまらない。つまらないのにドヤ顔で持ち出してくるのが腹立つ。こういう理由でダジャレは嫌われています。
ならば、知的な笑いを誘うクオリティの高いダジャレを作って、それをドヤ顔で披露すれば問題ない
こういうわけです。いつかこうした活動が実って、「全てのダジャレはつまらない」から「全てのダジャレがつまらないわけではない」「ダジャレにも面白いものはある」となり、万人が自信を持って力作のダジャレを披露できるような世界がくれば嬉しいです。
ところで、さっきの僕と友人との会話を見て、少しでも(ちょっと上手いな…)とか(今のは面白かったな…)って人、実はいるんじゃないですか?
そういう心の声を口にする。これが、「ダジャレに寛容な世界」を招く第一歩なのです。
1.2 ダジャレの法則
ダジャレの"根幹"は同音の配列を一文中に複数個並べることにあります。
例
ミカン(mikan)とアルミ缶(arumikan)
→アルミ缶の上にあるミカン
促音は音やリズムを乱さないので重視されないことが多いです。
例
布団(futon)と吹っ飛んだ(futtonda)
→布団が吹っ飛んだ
伸ばし音(ー、〜)の扱いについても同様です。
例
農閑期(noukanki)とノー換気(nokanki)
→農閑期はノー換気
カ(ka)とキャ(kya)など、共通の母音要素と子音要素を持つ拗音の扱いについては趣味が分かれますが、僕は使用を認める立場です。
例
陰キャ(inkya)と良いんか?(iinka?)
→陰キャのままで良いんか?
→陰キャのままで良いんきゃ?
※下のように変形する方が理解してもらいやすい
これ以外にも様々な法則があり、全てを体系化して整理することは困難です。しかし、いずれにも共通して言えるのは、多少音が異なっても全体的な語感が似ていれば良いということです。
例
コーディネート(kodineto)とこうでねいと(koudeneito)
→コーディネートはこうでねいと
このように、多少異なる(具体的には母音要素が違う)音があったり浮いてしまっている要素があっても、実際に発音してみてリズムや音が似ていればダジャレとして認められるケースもあります。
§2 完成度を高めるテクニック
§1で述べたように、知的な笑いを誘うものは往々にして考える→ヒラメキのプロセスを伴うものです。これはダジャレについても例外ではありません。このセクションでは、鑑賞者を唸らせるようなテクニックをいくつかご紹介します。
2.1 不要な文字を減らす
一般に、かかっている音が多いほど感心されます。
例
デミタス(demitasu)と満たす(mitasu)
→デミタスを満たす(demitasuwomitasu)
とするよりも
→デミタスで満たす(demitasudemitasu)
とする方が無駄な文字がなくなり、より洗練された印象を鑑賞者に与えます。
一般に、ダジャレをつくるときはある単語内に含まれる別の単語を探す(例 デ"ミタス"→満たす)ことが多いですが、上のテクニック利用するために頭に助詞の音を持つ単語を使うことが多いです。
例
モノレール(monoreru)と乗れる(noreru)
→モノレールも乗れーる(monorerumonoreru)
※あえて、「乗れーる」にすることで、モノレールとかかっていることに気づきやすくした。
(§1で述べた通り、伸ばし音は全体的な音に影響を与えないので、自分で付け加えても良い)
このとき、二単語の接続部分(上の例でいうと"も")が動詞の一部になっていたりするとクオリティはより高くなりますが、その分製作難度は高いです。特に、接続部分が二文字以上になると難易度は跳ね上がります。
例1
スプレーと挿すプレイ
→スプレーを挿すプレイ
※接続部分は"す"(挿すの活用部分)
2.2 外国語と日本語の対応
なにもダジャレで使えるのは日本語だけではありません。
例1
エンジニア→園児ニアと変形出来ることに注目。ニア→near→近くと連想して、
園児の近くにエンジニア
例2
竹→たけ→take(テイク)
竹をtakeしていく
日本語以外の知識が必要となるため難易度はやや高めですが、鑑賞者にも考えさせることができます。考える→ヒラメキのプロセスが日本語のみの場合と比べて長いので、評価は高くなる傾向にあります。ただ、メジャーな単語を選択しないと多くの人に理解してもらえません。巧妙さと簡単さのさじ加減が肝要です。
少し長くなったので、第1回はこの辺にしておこうと思います。次回は、「ダジャレを作るときにやってはいけないこと」や「ダジャレの表現形式」などについて語ろうかなと考えています。
いつも言っていますが、ダジャレは「作るものではなく、降ってくるもの」です。目にした単語全てでダジャレを作ろうとすることで、自然にダジャレを生成する回路が作られます。こうして理論やテクニックを体系化するのは、その作業の手助けにしかなりません。この講座に登場したルールを知っているからといって、ダジャレを作れるようにはならないということです。
もし、ダジャレ道を歩みたい人がいれば、きらら女子大学文学部棟ぱらじーむ研究室へお越しください。
ダジャレの世界はあまりに深い
理解するのは君たちには無理かい?