先日、タイムラインでこんな画像を見た。
この画像は
「ちょっとしたことで怒るヤツ、ナニ?」
という疑問に対するある種の反論である。
つまり、「ちょっとしたこと」は最後のひと押しに過ぎないのでそれまでの蓄積を忘れるな(さらにそこから、ワタシは器が小さいわけではないというニュアンス)ということである。
この、様々な思いと心の動きが簡単なイラスト1枚に「モデル化」されている。
な、なんて巧みなテクニックなんだ……
今日はこの「モデル化」の話である。忘れないうちに書いておくが、この記事での「モデル化」とは
論理の内部構造を、ときには具体的な装置などになぞらえながら明らかにすることで、自身の主張の多くを矛盾なく説明する一連の試み
のことである。要は「しゃらくせえたとえ」である。
正直、冒頭に提示した画像の真偽はどうでも良い。ケースバイケースだと思う。普段温厚な人がちょっとしたことでキレたらこの図のモデルのようなことが起こったのだろう。一方で、多くの人が気にもとめないようなことで心の器がこのくらいまで満たされてしまう人もいる。
僕が言いたいのは、「モデル化による説明は最良とは限らないにも関わらず、常に一定の説得力をもちやすい」ということである。
モデル化の強みは、それを見た人が新たに抱く疑問に対して解決策を提示できる可能性があるという点である。
モデル化された説明は、抽象的な内容によってのみからなる主張と違って聞き手の理解が良くなりやすいため、主張を見たときに「あれ、これってどうなんだ?」と生じた疑問を、聞き手自らがモデルを用いて解釈することがある。
この現象よって、真偽はともかく、筋が通りやすいのである。自分の反論を自分で解決してしまうのだから当然である。
実際、冒頭のモデルに対するSNSの反応は「本当にこれ」「わかる」など、思考停止の脊髄反射の言葉で溢れていた。サル未満のフナムシ野郎という感じだ。
モデル化とは、意見の可視化である。意見が先にあって、それに最も合致したモデルを後から形成するのが一般的な流れだ。意見が先、モデルが後。要するに、バイアスを排除できていない。むしろ、アンカリングバイアスに囚われていると言っても過言ではないだろう。
意見の可視化をするにあたって、より多くの理解を得るべくノイズとなる要素は省かなければならない。しかし、このノイズを判断する基準が既にバイアスなのである。
断っておくと、モデル化は煩雑な事象を整頓する上では極めて有用であるし、新たな事象に対して予測を立てる上では心強い道標になる。
しかし、ただ「イイタイコト」に味付けするためだけのモデル化には注意したほうが良い。実際、僕もなんとなく発言に説得力を持たせて場をリードしたいときは無意味にモデル化する。
SNSには会話がない。皆が思いも思いにイイタイコトを喚き散らしている。複雑でもなんでもない事象にわざわざ首を突っ込み意見だけを言う。予測を立てるわけでもない。断言するが、
SNSにおけるモデル化は100%タコである。
以上、「モデル化」をモデル化してみました。
(おわり)